食べて、祈って、ゴルジェして - Roots GORGE探訪記 【後篇】(ver1.1)

このエントリーはGorge Advent Calendar 2014、19日目の記事です。


Gorge Advent Calendar 2014 - Adventar



制限時間いっぱいとなった。
あれこれ考えるのは楽しいけれど、考え過ぎている間に2014年や人生やゴルジェが終わってしまうのでは残念だと思う。

エモーショナルになっているのは年末の忙しなさのためだろうか、それともKazuki Kogaによる12/25のエントリー『さよならGorge Advent Calendar〜ゴルジェよ永遠に〜』からの影響だろうか。


近頃は、神経科学や生理学の領域における情動(emotion)と感情(feeling)、気分(mood)の区別・分類に惹かれている。「感情は生理要素の認知からくる」とするウィリアム・ジェームズ&カール・ランゲ説と、「脳神経系からくる」とするウォルター・キャノン&フィリップ・バード説、そして「周囲の環境で人は自分の感情ですら勘違いしてしまう」とするスタンレー・シャクターの『情動二要因理論』の三説からなる「情動を巡る論争」も大変興味深い。

カナダの心理学者、ダットンとアロンによって1974年に発表された「生理・認知説の吊り橋実験」によって実証されたとする学説、通称『吊り橋理論』によっても裏打ちされる『情動二要因理論』はつまり、生理学的変化から原因を類推しようとする「原因帰属の認知」が情動の種類や生起を決定するという仮説が軸となっている。
情動や行動の原因をどこに求めるのかという心的過程「原因帰属」は、社会心理学分野において、人間の行動原理の非常に重要なキーワードのひとつと位置付けられているが、通常、情動に関する原因帰属は意識的な推測過程ではなく無意識的な推測過程として働くため、自らがどういった思考経路を経てその原因に行き着いたかということを意識することは稀である。

ある場面で音楽を聴き「魂が揺さぶられた」と感じた時、それを疑ってかかることは少ないが、実際のところ、それは勘違いであるかも知れない。シチュエーションがそうさせたのか、或いは音楽によるものか、その両方か、またはそのどれでもないのか。

熱気に満ちた大盛り上がりのフロアで一体感に包まれながら浴びるように聴いた時と、通勤中の満員電車で独りイヤフォンで聴いた時とでは、同じ楽曲でもだいぶ印象が異なる、といった経験は誰にでもあることだろう。また、予備知識無しで聴いた時には特にピンと来なかった楽曲が、あれこれ付随したインフォメーションを得てから臨んだ途端に輝いて響き出した、というのも良くあることだ。

「感動」に紐付けられた名曲を引用して「感動」へと誘導するテクニックや、興奮状態のMCによって観客の体内温度を上げていくといった方法論は定番化しているが、個人的にはそれを取り立てて否定するものでは無い。
「予め撮るべきものは全て撮り尽くされてしまった」というところからスタートし映画界に新風を巻き起こしたヌーヴェルヴァーグを例に挙げるまでもなく、今更それは絶望には値しない。
「気づきの喜び」や「共感する喜び」「安心感」、それらに過剰に依拠した音楽が世に溢れ、実際支持されているとも思うが、それはやはりそういうものだろうと認識している。



「音楽による感動」は「気のせい」である。
誤解を恐れずに言えば、僕はそういったスタンスでゴルジェに、音楽に臨みたいと日夜考えている。


「山は山だ」「それはずっとそこにあったし、これからもそこにある」。
ネパールやインドの山岳地帯にあるクラブで発祥・発展したとされるゴルジェ。
オリジネイターのひとりDJ Nangaは、数少ない証言の中で繰り返しそう言っていた。

人はなぜ雄大な山を、自然を前にして「感動」するのだろう。
それもまた「気のせい」であり「勘違い」なのだろうか。
未知のスケールに圧倒され抱いた「畏怖の念」と履き違えてしまっているのだろうか。
或いはそうなのかも知れない。
しかし、そこにはただ、言語化することの出来ない大きな感情の揺らぎが存在するのも間違いない。生き物としてDNAに刻まれた信号が発動する、とでも言うべきか。

優れたゴルジェを聴き「感動」する時、そこには同様の原始的な情動があるし、そうあって然るべきだと信じる。

ヌーヴェルヴァーグもご多分に漏れず、ジャンルとは、伝説化され絶対的なコンセンサスとして硬化しながら、新たな重圧として規範の色を強めていくのが常であるが、ここにはそれは当て嵌まらない。

なぜならゴルジェとは、既存の音楽ジャンルとは異なり、「普遍的」で、かつ「得体の知れない」「未知の何か」であることが命題とされているから、である。
最大公約数に消費されるべく制作されるポピュラー・ミュージックや、ダンスフロアでの機能性が最重要課題であるダンス・ミュージック、実験が目的化したエクスペリメンタル・ミュージックとはそもそも丸っきり性質が異なるものなのだ。
「ゴルジェはずっとそこにあった」DJ Nangaはあくまでも仄めかした発言を残すのみであるが、それが意味することはつまりそういうことだ。

既成の音楽ジャンルの広大な海の中に、「ゴルジェ耳」を持った聴き手には伝わる明確なシグナル(「違和感」と言ってしまっても良いだろう)を発しながらポツリポツリと佇んでいる。あるものはその全貌を現して悠然とそびえ立ち、あるものは氷山の一角としての断片的な記号をドット絵のごとく座標に記しながら探検者の発見を待ち侘びている。

リズム構造や音色など既成のフォーマットを転用することについての制約は全く存在しないけれど、そもそもの文脈からは切り離された位置に、遥か昔から存在していたかのような風格を備えて存在する音塊。

フロアで爆音で聴くにせよ、満員の電車内でイヤフォン聴きするにせよ、それがゴルジェであることを目の当たりにし感動している、そう感じさせられるものがゴルジェであると信じている。目を瞑れば険しい山がそびえ立っている。鼓膜を振動させる音塊が、理由もなく魂を揺さぶる。息苦しい。8000メートル峰14座なんて知らなくても、なんなら登山すらしたことがなくても、これが未知の景色である、ということが感覚的に、本能的に判る。メロディらしきメロディが無くても、風の歌が聴こえる。
踊れるか踊れないか、口ずさめるか口ずさめないか、そんなものは聴き手の問題でしかないし、大した問題ではない。ある意味では、既成のフォーマットから独立した存在であることが、その楽曲を普遍的な、真のゴルジェたらしめる。
これまでもそうだったように、数年もすれば価値観は完全に更新され、安直なコピーはコピーとして完全に忘れ去られるだろう。

NagnaにはNangaの、hanaliにはhanaliのゴルジェが存在するように、これからもオリジネイター=ブーティストによるオンリーワンのゴルジェが生み出され、ワンプッシャーによる新たな発見があるだろう。僕らは既にゴルジェの存在に気付いてしまった。